HOME >> 書籍情報 >> 詳細 >>あとがき(公開用)

書籍情報


ミュンスター宗教改革ー1525~34年反教権主義的騒擾、宗教改革・再洗礼派運動の全体像ー

『ミュンスター宗教改革ー1525~34年反教権主義的騒擾、宗教改革・再洗礼派運動の全体像ー』

あとがき(公開用)

 これは、ヨーロッパの歴史上最も特異な宗教運動の一つ、ミュンスター再洗礼派運動が成立するまでの過程を描いた本です。
 その舞台となるミュンスターは、ドイツ北西部ヴェストファーレン地方の中心都市の一つです。16世紀に宗教改革がヨーロッパ各地で広がっていく中、最初はありふれた社会運動として始まったミュンスターの宗教改革は、ベルンハルト・ロートマンという説教師のサクラメント論の変化を契機に、特異な宗教改革運動へと変貌していきました。
 その結果始まったのが、再洗礼派によるミュンスターの統治です。再洗礼派は、神聖ローマ帝国で異端・反乱者として死をもって禁じられていたため、ミュンスター再洗礼派は、帝国諸侯の軍隊と包囲戦を繰り広げることになりました。本書が扱うのは、この再洗礼派統治が始まるまでの時期です。
 ミュンスター再洗礼派は、終末が間近に迫っており、新しいエルサレムたるミュンスターでのみ、神による罰を免れえると信じていました。市内では、預言者を頂点とした神権政が成立し、既存の都市制度が廃止され、財産共有制や一夫多妻制が導入されました。しかし、16 ヶ月の包囲戦の後ミュンスターは包囲軍により占領され、再洗礼派による統治は終焉を迎えました。逮捕された3人の再洗礼派指導者は公開処刑され、その遺体を入れた檻が見せしめのために聖ランベルティ教会の塔に吊されました。
 このような特異な宗教運動は、ヨーロッパの歴史でも他にほとんど例がありません。現代の日本で言えば、オウム真理教が甲府市を占領して、1年半近く自衛隊と戦争するようなものでしょうか。およそ非現実的に思えますが、ミュンスター再洗礼派運動は、絵空事ではなく、実際に起こった出来事です。

 私が、このような突飛な宗教運動を研究対象にしようと思ったのは、元々人が何かを信じるということに関心を持っていたためです。以前は神などの超自然的な存在、間近な終末のような非現実的なことを信じている人が、世の中に多々いることを不思議に思っていたので、何故人はそのようなことを信じうるのか、その理由を知りたかったのです。そして、強い信仰心を持っていた人々のことを調べれば、その理由の一端が分かるのではないかと考えました。
 その際、私がミュンスター再洗礼派を研究対象に選んだのは、まさに彼らが自分の命を賭して強大な敵と戦うほどに強い信仰を持った人達だったからです。私が、ミュンスター再洗礼派の事を知ったのは、荒俣宏が彼らの事を紹介した本を読んだことがきっかけでした。そして、ノーマン・コーンの『千年王国の追求』(紀伊國屋書店、1978年)で、ミュンスターで起こったことの一部始終を知り、彼らの信仰のあり方を研究してみたくなりました。あれからもう、20年の月日が流れたとは早いものです。
 とは言え今は、自分の最初の関心である信仰のあり方を解明するためには、歴史学の研究ではなく、進化生物学や進化心理学の研究の方が適切だったのだろうと考えています。私が研究を始めた1990年代以降、認知科学が急速に発展し、人間の信仰を解明するようになってきたためです。そのため、この問題については自分の研究で知見を深めるというよりは、他の方々の研究成果から学びたいと考えています。

 しかし、当初の目論見は外れたとは言え、私はまだミュンスター再洗礼派の研究を続け、大変面白いと思い続けています。私が研究する時に、大きな関心を持ち、本書でも取り組み、今後より分析を深めていきたいと思っている点は、主に三つあります。

 一つ目は、偶然を学問的に取り扱うことです。ミュンスター再洗礼派運動は歴史上稀に見る例外的なものですが、その母体となった宗教改革運動はありふれたもので、その担い手のミュンスターの人々も普通の人達です。それが特異な運動になったのは、様々な偶然が積み重なったからだと私は考えています。歴史学でも理論的な論考では、歴史における偶然の重要さが強調されることがありますが、個別の実証研究で偶然が重要な要因として挙げられることは稀ではないかと思います。(遅塚忠躬『史学概論』東京大学出版会、2010年、414-416頁によると、偶然を強調する個別研究も登場しているようですが。)しかし、ミュンスター再洗礼派運動のような例外的な現象を考える時に、偶然性は無視できないので、この本でもあえて大きく取り上げました。
 ただし、私もまだミュンスター再洗礼派運動のような偶然が大きな影響を及ぼして生じた例外的現象をどのように捉えれば良いのか、良く分かっていません。今のところは、べき乗分布に則り起こる無数の出来事の中の極少数の大規模なものとして理解しています。マーク・ブキャナンは、『歴史の方程式』(早川書房、2003年)で、地震や火災、戦争や株価の変動、都市の人口等様々な現象の規模がべき乗則に従っていると指摘しています。例えば地震なら、規模が大きくなればなるほど、その数は加速度的に少なくなっていくので、極めて多数の小規模な地震と、極めて少数の大規模な地震が起こることになります。おそらく千年王国運動の規模もべき乗分布しており、ミュンスター再洗礼派運動は、地震で言えば東日本大震災のような、その中の極少数しかない大規模な運動に当たるのではないかと考えてます。とは言え、歴史的な事件の場合、事件の種類をどう判定し、その範囲や規模をどう評価するかが難しいため、どのようにして上の仮説を検証できるかは、現在の私には分かりません。しかし、いずれこの問題には真剣に取り組まねばならないと思っています。

 二つ目は、複雑なことを、なるべく複雑なまま描き出そうとしたことです。ミュンスターに限らず、宗教改革運動には考えや利害を異にする色々な人々が参加していましたが、管見の限り、これまでの研究では多様な人々の動機や行動がいかに相互作用していったか、十分に明らかになっていない気がしていました。特に私が気になっていたのは、女性の役割が十分に考慮されて来なかったことです。ヴィースナー-ハンクスは、2009年に女性史・ジェンダー史研究が劇的に進んだにもかかわらず、主流派の宗教改革史研究から隔離されたままだと指摘しました(本書註58を参照)。彼女は、1987年の論文(Merry E. Wiesner, Beyond Women and the Family: Toward a Gender Analysis of the Reformation, in: Sixteenth Century Journal 18(3), 1987, pp.311-321)で女性史や家族史が「ゲットー化ghettoizing」されていると述べましたが、21世紀でも状況が根本的に変わったとは言えないようです。私は「ゲットー化」を避けるために、女性や貧しい男性も含めた全ての集団、社会階層を同じように扱い、彼らの動機や行動がいかに相互作用して運動を進めたのかを明らかにしようとしました。しかし、この複雑な相互作用をどう分析して良いのか妙案が浮かばず、あれこれ考えるうちに長い時間が経ってしまいました。最終的に、階層化された多様な動機と規範の結びつきの再編、そして合意形成の発展段階に注目することで、その相互作用を拙いながら描いてみました。未だ道半ばですが、少なくとも女性や貧しい男性を「ゲットー化」しない研究には仕上げられたと思っています。

 三つ目は、史料にはなかなか出てこない重要なことを扱おうとすることです。私は、研究を進める中で、ミュンスター再洗礼派の大半を占める女性の言動、宗教改革運動支持者達の私的なやり取りといった重要なことが、史料にはほとんど出てこないことに気づかざるを得ませんでした。そのため、史料に出てくる記述だけを見ていると、歴史記述は自ずと大きく偏ってしまうと思いながら研究をしてきました。とは言え、史料に書いていないことを想像するだけだと、根拠のない妄想になってしまいます。そこで、非公式な領域や実質的合意という概念を利用することで、史料からは直接把握できないことを間接的に浮かび上がらせようと試みました。しかしこれも不十分なので、今後も、何か上手い方法はないか考えていこうと思っています。

 上で挙げた三つのやりたいことは、どれもきちんとした研究にするのは大変なので、私は試行錯誤ばかりして、なかなか業績を増やすことができませんでした。しかし、足りない頭で必死で考え続けるうちに、気がついたらこんな研究ができあがっていました。これがどの程度上手く行ったかどうかはわかりませんが、限られた時間や条件の中で全力を尽くしたつもりです。最終的には周回遅れからの集大成として、一つ大きな研究をまとめることができたので、回り道も無駄ではなかったと、全て今は納得しています。

 本書では、ミュンスターで再洗礼派統治が始まるまでの時期を扱いましたが、ミュンスター再洗礼派運動がその特異性を顕わにするのは、まさしくこの後の時期です。倉塚平先生は、『政経論叢』で「ミュンスター千年王国前史」を完結させた後、同誌で「ミュンスター再洗礼派王国論」という再洗礼派統治期についての連載を始めましたが、残念ながらこれは未完に終わりました。そのため、これからの私の使命は、倉塚先生が果たせなかった、再洗礼派統治を描き出す研究を世に出すことだと考えています。
 いつ失業するか分からない非常勤講師として細々と生活する私が、いつまで研究を続けられるのか分かりませんが、可能なら、いずれ地上で黙示録的な戦いを繰り広げた再洗礼派の希望と絶望の全貌を描いてみたいと考えています。それに向けてこれからも、回らない頭を携え歯を食いしばりながら、鈍重な足取りで歩みを続けようと思います。

2017年6月20日